5. 朝顔


 夏の京都は蒸し暑い。祇園祭が終わりお盆を迎えてもその暑さは相変わらずで、小学五年生になった私はタンクトップにショートパンツという開放的な姿で扇風機の前に張り付いていた。

「八十、夕方から出かけるんやろ、準備しいや」
「はあい……浴衣出しといて~」
「昨日から和室に出してあるやろ」
「うう……暑……」

 あまりの暑さのせいなのか、今日は朝からズキズキと頭が痛む。しかし今日は八月十六日、五山の送り火の日である。桃花と送り火を見に行く約束しているので、そろそろ準備をしなくてはならない。
 先に和室のエアコンを入れてから少し熱めのシャワーを浴びて全身の汗を洗い流す。冷たいシャワーを浴びたときの汗の引く感覚も好きなのだが、お湯を浴びるとその後の暑さが心もちマシなのだ。ふんふんと鼻歌を歌いながらタオルで身体を拭き、体にタオルを巻いてどたばたと和室への階段を昇れば「またそんな恰好でうろうろして」という母の小言が聞こえた。
 和室の壁に掛けられていたのは白地にオレンジの金魚が泳ぐ浴衣と青地に朝顔が咲いた浴衣。少し悩んでから白いほうに袖を通す。青い浴衣は母が若いころに着ていた浴衣で、先月の祇園祭にはそちらを借りて着て行ったので今日は金魚のほうを選ぶことにした。
 待ち合わせの時間よりかなり早めに家を出て、銀閣寺の門前で護摩木を奉納してからバスに乗って桃花との待ち合わせ場所である鴨川へと向かう。毎年挨拶に行っていた祖母に代わって私が顔を出すようになったのが去年のこと。護摩木は桃花から肺を悪くして入院したおじいちゃんのためにと頼まれたものだった。名前と病名を書いた護摩木を送り火でお焚き上げしてもらうと、その人の病気が治ったりよくなったりする。多くの病気が医学的に解明されてきた今の世でもその慣習が続いているのは、人がまだ「人間では解明できないなにか」を信じているからなんだろう。
 まだ点火の時間には早いもののバスの中は同じように浴衣を着た人たちで混み合っている。出町柳で京阪電車に乗り換えれば、同じことを考えている人が多いのか一気に人の波が動いた。人ごみに揉まれながら祇園四条の駅で電車を降り、四条駅まで歩いて行く。混雑を予想して早めに家を出てよかった。そろそろ桃花に電話をしなければ。ピンク色の端末を手提げの中から取り出し桃花を呼び出しながらいつも以上にカップルの多い四条通を歩いていく。そしてひときわ混み合う四条大橋に差し掛かった、そのときだった。

「っ、」

キィンという耳鳴りの音が聞こえ足を止めると、世界が動きを止めた。人も車も動かず、あれだけ騒がしかったのが嘘のように静かになる。この感覚を、私は知っていた。そんな私の予想通り、目の前の空間が音を立てて割れ、その切れ目から黒々としたものが飛び出してくる。それは二年前、植物園で襲ってきたあの落ち武者のような何かで。以前と少しだけ違うのは、その落ち武者の周りに二匹の小さな骸骨が飛び回っているということ。

「もしもーし、八十ちゃん? 今どの辺?」
「……桃花、ごめん。ちょっと遅れるかも」
「え、どうしたん? 大丈夫?」
「着いたら連絡するし駅の中で待ってて」

 慌てて通話を切って巾着の中に端末をしまう。

「青江さん」

 ぽつりと呟いた声に返事はない。当たり前だ、あの脇差は今、押し入れの中にあるのだから。しかし私はそのとき、彼が来てくれると信じていた。それには理由も確証もない。ただ、そう信じていた。

「にっかり青江!」
「……やあ、今日は随分と可愛らしい恰好をしているね」

 二度目の呼びかけで、青江はまるでずっとそこにいたかのようにスッと私の隣に姿を現した。口では私の浴衣姿を褒めながらもその目はじっと目の前の落ち武者たちに向けられている。その視線の強さがあれが幻の類ではないと告げているようで、私の背中を暑さからくるものとは別の汗が伝った。

「この間と少し違うみたいです」
「そのようだねえ……
」 「場所を変えるべきですか?」
「いや、その必要はないみたいだ。というより僕たちは閉じ込められているみたいだよ?」

 そう言って青江が手を伸ばすと、何もないはずの空間が波打つように揺れる。

「……結界?」
「うん、これはかなり堅そうだ」
「私も一時的なもんならなんとか。ここまでしっかりしたんは無理やけど……」
「それは嬉しい誤算だ。じゃあ君は自分を守ることに専念してくれるかい?」

 「今回は僕もあまり余裕がなくてね」そう言って刀を抜いた青江は、昂る気持ちを抑えるように唇を舐めた。細められた目も相まってまるで獲物を狙う蛇のようなその姿に、私は小さく息を呑む。

「……三分」
「え?」
「三分間、耐えてほしい」
「……分かった」
「いい子だね」

そう言ってにこりと笑うと、青江は静かに地面を蹴った。 私の目では追いきれない速度で落ち武者と斬り結ぶ青江の背中から目を離し、こちらに向かって飛んでくる二匹の骸骨たちを見据える。魚のように体をくねらせ宙を泳ぐその骸骨たちは、それぞれ口に小さな刀を咥えていた。
私は「この世界」で生きていくにはまだまだ未熟で、能力的にも経験面でも祖母の足元にも及ばない。それでも二年前、植物園でただ指をくわえて見ていることしかできなかった私とは違う。戦う力がないのであれば、もっと大きな力を借りればいい。幸運なことにここは四条大橋。つまり鴨川の真上である。力を借りるのにこれ以上よい場所はない。

「東の清流に坐し坐して天と地に御働きを現し給う青き神に恐み恐み白す」

 辺りに響くほどの大きな声でそう唱えてから手提げの巾着から御札を取り出し、迫りくる骸骨たちを睨み付けたまま言葉を続ける。
「この地に穢れあらんをば退け給ひ我を守り給へと白すことを聞こし召せ!」

 御札を挟むようにしてパンっと音を立てて手を合わせ、その御札を口に咥える。そしてそのまま素早く印を結び、上空に向かって御札と一緒にふっと息を吹き出した。
 ふわりと空中に舞い上がった御札は、私の目の前でぴたりと動きを止める。そしてそこに突っ込んできた二匹の骸骨たちは、ガンッという音とともに勢いよくはじき返されていった。
 鴨川は古くから京都の守護の要とされてきた。それは土地を分断する大河という地理的な要素に加え、清い水の流れに神が宿ると言われていたからである。川の流れのように雄大で、その水のように澄んだ青色を司る龍。四神の一、青龍の守護はこの鴨川にあった。
 しかしいくら強大な力を借りているとはいえ、その力を使っているのはまだ未熟な私だ。二匹の骸骨たちがガンガンと大きな音を立てて見えない壁にぶつかってくるたび、その部分に小さな亀裂が入っていく。三分間耐えろと青江は言った。少しでも集中が途切れれば結界も崩れてしまうので青江の姿を確認する余裕はないが、もう少しで三分が経過する。それまで耐えればきっと助けにきてくれる。そう自分を奮い立たせた私の耳にぱりん、となにかが割れる音が聞こえ、同時に頬に鋭い痛みがはしった。「え」と小さく声を漏らして痛みを感じた頬に手をやれば、ぬるりとした赤い液体が指先を濡らす。

「っ、祓い給へ清め給へ!」

 そんな集中力の途切れた状態で詠唱を省略すれば、発せられるのは虫に刺された程度の弱い攻撃だけ。足止めにすらならない攻撃を受けた二匹の骸骨たちは、白骨の尾をしならせもう一度こちらへと飛び込んでくる。避けなければ。慌ててその場から離れようとしたところで強い頭痛に襲われ、踏み出した足から力が抜ける。
 目前に迫る小刀はぎらぎらと剣呑な光を宿し、それを咥えた骸骨たちの窪んだ目が私を捉えた。やられる。そう思ってせめてもの抵抗にと振り上げた巾着はパシリと受け止められ、私に刺さるはずだった相手の攻撃がキィンという音とともに弾き飛ばされる。驚いて顔をあげれば、色の違う二つの瞳が心配そうに私を覗き込んでいた。ほっと安心したのもつかの間、その肌や衣服に刻まれた切り傷から血が滲んでいることに気づく。

「青江さん、怪我」

 血の滲む頬にそっと手を伸ばすと、真っ赤な血が私の指先を汚した。この男も怪我をし、血を流すのか。それも私と同じ赤い血を。その事実に、私は自分の状況も忘れてひどく動揺した。

「君、もしかして――」
「……?」
「いや、なんでもないよ。君だって怪我をしているじゃないか。よく頑張ったね」
「ヒッ」

そうするのが当たり前、と言わんばかりに堂々とした態度で私の頬の傷を舐めた青江に叫び声をあげて後退る。頬に触れた赤い舌には確かに温度があり、人間と同じように柔らかかった。

「それでこそ僕の主だ」

 軽やかに跳躍し宙を泳ぐ二匹の骸骨たちをひとまとめに斬り捨て、青江は楽しそうに笑う。その両の目が赤く輝いた気がしてパチパチと瞬きをすると、その場に一気に喧噪が戻ってきた。目の前にはあの骸骨たちはもちろん、青江の姿もない。橋の中ごろでぼうっと立ち止まっていると、他の通行人たちに迷惑そうな顔をされ慌てて歩き出す。
 しばらく人の波に流されつつなんとか四条の駅に到着し、人でごった返す待ち合わせ場所のベンチに腰を下ろす桃花の姿を見つけて走り寄る。その瞬間感じた強い眩暈。ぐらりと歪んだ目の前の景色に思わずその場で足を止めれば、浴衣の下でなにかが太ももを伝っていくのが分かった。
 ぽた、と地面に落ちたのは赤い滴で。続いてじわじわと腹部に鈍い痛みが広がって、私は咄嗟にその場でしゃがみ込んだ。

「八十ちゃん」
「桃花、どうしよ、うち、」
「大丈夫、駅のトイレ借りよ」

 恥ずかしさと焦りで戸惑う私とは対照的に、意外にも桃花は落ち着いた様子で駅のトイレまで私の手を引いて行く。そのままテキパキと私をトイレの個室に押し込んだ桃花は、自販機で買った生理用品を私に手渡し扉を閉めた。

「……桃花、ありがとう」
「ええよ、出先で災難やったけど浴衣が汚れんでよかった」

 かなり落ち着いたものの柄にもなく取り乱した自分が少しだけ気恥ずかしくて。

「っていうか八十ちゃん、頬っぺたも怪我してるやん」
「あ、これはさっき……」
「もー!どんな小さい怪我でも放っといたらあかんよ?」
「ご、ごめん……」
「なんや顔色も悪いし今日はやめとこか」
「え、でも」
「今度改めて浴衣デートしよ。約束」

 そう言って小指を差し出した桃花。実を言うと腰の重さと連続的に押し寄せる鈍痛でかなりまいっていた私は、彼女のやさしさに素直に甘えることにして家へ帰ることにした。

「……八十」

 再び電車に乗って最寄駅まで戻ってきた私の名を呼んだのは、先程姿を消したはずの青江だった。驚くべきことにその姿は私以外の人間にも見えているようで、駅前で手を振るコスプレまがいの恰好をした美しい男に多くの通行人たちが振り返る。

「ちょっと、なんで」
「……見えないほうがいい?」
「見えへんようにできんの!?っていうか今消えられたらそれこそ騒ぎになるわ!」

 こそこそと小声で会話しながら人通りの少ない道を選んで帰路を急ぐ。夜は更けていき、夏の青い空はゆっくりと闇に呑まれていく。

「青江さん」
「青江でいい」
「……青江」
「なんだい?」
「青江は……一体なに?」

 黙ったまま早足で歩き、家の前まで辿り着いたところで思わずそう尋ねた。祖母は彼のことを神だと言った。しかし今日、私が触れた青江の身体は人間のそれと全く同じ熱を持ち、「生きて」いた。

「僕はにっかり青江……君の刀だよ」
 にいっと笑った青江の瞳は、やっぱり綺麗な金色で。夏の夜風で緑色の髪のがさらりと靡いたそのとき、東の夜空で「大」の文字が燃え上がった。




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