黒羊咩咩 / kokuyoh meme

キラキラ



1.
 高校一年生の春、私は恋をした。満開の桜の木の下を風のように走り抜けていく自転車に乗った少年に、恋をした。お伽噺に出てくる王子様のように明るい金色の髪をした彼は、いつも前だけを見て私の前を通り過ぎて行った。

 「福富寿一」それが彼の名前だと知ったのは、桜の花が散り青々とした若葉が茂り始めた頃。朝から少し体調が悪く保健室で休ませてもらっていた私の耳に、低く落ち着いた声が聞こえた。保健室の白い布団に身体を埋めながらカーテンの隙間からそっと声のする方向に目をやれば、そこにはあの金色の男の子がいた。体育の授業の途中に怪我をしたのか、体操服のズボンから覗く膝からはダラダラと血が流れていて。見ているだけで痛そうな傷を消毒してもらいながら、彼は自転車に乗っているときと同じように真面目な顔をしていた。「ありがとうございます」と静かにしかしハッキリと礼を述べた彼は、まるで怪我の痛みなど感じていないかのように堂々と保健室を後にした。

「あら、松下さん。もう具合はいいの?」
「お蔭様で少し楽になりました。次の授業には出られそうです」

 そう、よかった。と微笑む保険医の机の上に置かれたバインダーに挟まれた一枚の紙切れ。保健室の利用者名簿と書かれたその一番下に、彼の名前はあった。

「福富、寿一」
「あら、福富くんと知り合い?」
「えっと、まあ、はい」
「偉いわよねえ、まだ一年生なのに」
「……?」
「自転車競技部、頑張ってるみたいよ」

 自転車競技部。あまり馴染みのない名前の部だけれど、初めて見た日の彼の真っ直ぐな走りを思い出してなんだか心が温かくなった。自転車競技ということは、きっと彼は物凄く速く走ることができるのだろう。多分、私が体験したことがないくらい速く。福富寿一。彼の落ち着いた声色が、やけに耳に残って離れなかった。




2.
 次に私が福富くんと出会ったのは、青葉が赤や黄色に姿を変えて箱根山を彩り始めた頃のことだった。クラスの文化祭の準備のために買い出しへと出かけたときに、重そうな荷物を運んでいる福富くんが目に入った。恐らく隣を歩いていた女の子の運んでいたものを、彼が代わりに持ってあげたのだろう。福富くんよりも随分と小さなその女の子は、くるくると表情を変えながら楽しそうに話をしていた。対する福富くんが相変わらず真面目な顔をしながらも時折小さく頷いているのが見えて、私はそっと二人から目を逸らして玄関ホールを歩く足を速めた。もし私が同じクラスだったら、ああやって彼と言葉を交わせたかもしれないのに。福富くんの隣に並んで、一緒に前を見つめられたかもしれないのに。クラスメイトという肩書きが無ければ彼と話せない程には、私は臆病だった。



3.
 季節は巡って、二度目の春がやって来た。そして二年生となった私は、福富くんと同じクラスになった。何度も何度も掲示板に並ぶ自分の名前と福富くんの名前を確認して、ドキドキしながら新しい教室へ足を踏み入れた。新学期ならではの喧騒の中、福富くんはスッと背筋を伸ばして自分の席に座っていた。その隣では黒い髪の男の子が机に腰掛けながら彼に話し掛けていて。その話に耳を傾けながら一瞬口端を上げて笑った福富くんに、あんな顔もするんだと綻びかけた口元を押さえた。決して席は近くないけれど、同じクラスになれたというだけで私は幸せだった。彼は私の名前なんか知らないだろうし、私も彼が自転車競技部の福富寿一であることしか知らない。私たちの間にある距離は何も変わっていなかったけれど、私は嬉しかった。去年は届かなかった場所に、今こうして立っているのだから。




4.
 二年目の夏。額に浮かぶ汗を拭いながらじりじりと照り付ける太陽の下を歩いていた私は、校舎裏にある桜の木の下で佇む福富くんを見つけた。その顔には大きなガーゼが貼られていて、手足にも所々包帯が巻かれていた。怪我をしている彼を見るのはこれが二度目だけれど、木陰で一人拳を握りしめている福富くんには、いつものように堂々とした雰囲気が感じられなかった。怪我のせいだけではない。私よりもずっと大きな身体が、小さく震えているように見えたのだ。

「あの、大丈夫……ですか?」

そう声を掛けてしまってから、私はそんな自分に驚いた。同じクラスになったとは言え、福富くんに話し掛けるのはこれが初めてだったから。
「……ああ、すまない。少し考え事をしていた」
「え、あ、ごめんなさい。邪魔するつもりはなかったんです」
「何故敬語なんだ。同じクラスだろう」

 息が止まるかと思った。彼が私のことをクラスメイトだと認識していたなんて、思ってもみなかった。いつも真っ直ぐ前を見つめていた福富くんの瞳には、今はポカンと間抜けな顔をした私が映っている。しかし、私には分かっていた。彼が見つめているのは私よりもずっと遠くにいる別の誰かのことであると。

「福富くん、私のこと知ってたんだね」
「伊津だって俺のことを知っているじゃないか。同じことだ」
「だって、福富くんは有名人じゃない。二年なのにもう自転車競技部のレギュラーなんでしょう?」

 私がそう言うと、福富くんは私から視線を逸らして木漏れ日の躍る地面へと目をやった。彼の見ている世界から追い出されてしまった私は、同じように自分の足元を見つめることしかできない。向かい合って地面を見つめる二人の間に漂う沈黙。それを破ったのは福富くんの方で。

「俺は強い」
「う、うん」
「しかし俺はエースとして、一人の人間として決して許されないことをしてしまった」
「……うん」

 眉間に皺を寄せて一言一言ゆっくり言葉を紡ぐ福富くんに、私は上手い言葉を返すこともできずに馬鹿みたいにただ相槌を打つことしかできない。

「それでも俺は……まだ強くなりたいんだ。もう一度、勝負がしたい」
「……そっか……」
「すまない、お前にこんな話をしても、」
「相手の人にちゃんと言ったの?」
「……え?」
「え、あ、その……福富くんと一生懸命戦った人なら、福富くんがわざと悪いことしたんじゃないって分かってるんじゃないかな」

 地面からこちらへ戻って来た強い視線に声が上擦りそうになるのを押さえ、一生懸命言葉を選ぶ。

「だから、ちゃんとごめんって言ってもう一回勝負してくださいって頼んでみた方がいいよ」
「……」
「した後悔よりしなかった後悔の方が辛い、ってうちのお母さんもよく言ってるし……」

 だんだんと小さくなる声。何も知らないくせに、ずっと憧れていた相手に偉そうなことを言ってしまうなんて。お節介な奴だと思われてしまったに違いない。


「ありがとう、伊津」

 しかし予想に反して、福富くんが口にしたのは穏やかな感謝の言葉で。視線を彷徨わせながら俯いていた私は思わずバッと顔を上げた。日の光を浴びてキラキラ輝く金色の男の子の瞳には、その時私だけが映っていた。

「お、お節介焼いちゃってごめんね!その、私、関係無いのに偉そうに、」
「いや、第三者だからこそ言えることもある。そして俺はお前の言葉で救われた」
「そ、そっか!ええと、私もう行かなきゃ!じゃあね福富くん」
「ああ。また。伊津」

 持久走の後ぐらいドキドキと激しく脈打つ心臓をギュッと押さえて、人のまばらな校門を足早に通り過ぎて行く。福富くんが私のことを知っていた。そして、私の言葉に救われたと言った。一瞬でも自分があんなに近くに立って彼と喋っていたということが、私が彼の世界に映りこんだということが、私は未だに信じられなかった。




5.
 私が桜の木の下で福富くんと話をしたあの日から、私たちの間の距離は少しだけ変わった。いや、正確には、変わったのは福富くんの方だった。いつも一人で真っ直ぐ前を見つめていた彼の世界には、沢山のものが映り込むようになっていた。彼の周りはいつも彼を慕う人たちで溢れるようになっていた。そして驚くべきことに、その中には私も含まれていたのだ。

「おはよう、伊津」
「おはよう、福富くん」

 他のクラスメイトとは違う、私だけに向けられた言葉。確かにその瞬間、福富寿一という男の子の世界に映っているのは、同級生でもクラスメイトでもない、私という人間だった。名前の無いその関係が私はとても好きで、特別だった。



6.
 三年目の夏、私は真っ青な空の下でキラキラ輝く金色を追い掛けていた。

「三日後にインターハイがある。もしよかったら見に来ないか」

 放課後帰る準備をしていた私にそう声を掛けて来たのは、紛れもなく福富くんだった。彼は相変わらず凪いだ海のように静かで、しかし同時に雄大だった。「私が見に行ってもいいの?」と聞いた私に、彼は少し頬を緩めて「駄目なら最初から誘いはしない」と言った。
 初めて目にするロードレースは、只々圧倒的だった。ぶつかり合う力、選手たちから発せられる熱気、観客の声援、太陽の熱、そして風を切る自転車の音。ただの観客でしかない私でさえ、五感いっぱいにぶつかってくる全てのものに肌が粟立つのを感じた。そんな中で、福富くんは強かった。彼は言っていた。桜の木の下で拳が白くなるまで力を込めて握りしめながら、「俺は強い」と。確かに彼は強かった。静かで荒々しく、ただ強かった。それはもう、怖いほどに。キラキラしていると思っていた金色は、まるで草原で獲物を狩る獅子のように強い、王者の纏う色だったのだ。

 しかし勝負の世界というのは残酷だった。三日間続いたインターハイの中で福富くんは何度も表彰台に上がっていたが、最終日にそこに立っていたのは私たち箱根学園ではなく千葉の総北高校の黄色いジャージだった。強くて温かい、王者の色。しかし、表彰台に並ぶ彼らを見つめる福富くんは晴れ晴れとした顔をしていた。やっぱり彼は強い。私はそう思いながらその隣へと足を進めた。

「福富くん、お疲れ様」
「……伊津」
「凄かった。上手くは言えないけど」
「そうか」
「一年前の勝負、できたんだね」
「……ああ。なんだ、覚えていたのか」
「忘れるわけないじゃん。だって、」

 私はあなたのその真っ直ぐな眼差しを、ずっと見ていたんだもの。勝利を讃える声や悔しさを吐露する声が飛び交う中、私は福富くんを見上げてそう言った。絡み合う視線。福富くんの瞳の中には私だけが映っていて、私の瞳の中には彼だけが映っている。告白のセリフとしては少し臆病な私の言葉を聞いた福富くんは、最初に出会った日のように真面目な顔で「ありがとう」と言った。




7.
 あの熱い夏の日から、私は福富くんのことを「寿一くん」と呼ぶようになり、彼は私のことを「由宇」と呼ぶようになった。インターハイが終わって受験勉強に専念するようになっても、寿一くんはいつだってピンと背筋を伸ばして前を見つめていた。他の人たちのように甘い言葉のやりとりなんて無いけれど、真面目な顔で一々「由宇と呼んでもいいだろうか?」と問いかける彼のことが私は大好きだったし、ずっと遠くから見つめることしか出来なかった背中に触れることができる距離に立っているだけで満足だった。永遠なんて言葉はピンとこないのだけれど、寿一くんが見つめる先には確かに未来がある。温かくて、キラキラした世界が。だから私は今日も彼の隣を歩んでいく。真っ直ぐ前を見つめて、歩んでいくのだ。




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