0. 夏すみれ
この世には「人ならざるもの」が存在している。いや、もしかするとこの世を司っているのは彼らの方で、私たち人間がそこにはびこる有象無象なのかもしれない。
現に私はいま、その「人ならざるもの」たちの力を借りて「人ならざるもの」たちと戦う仕事をしている。怪談めいた話に聞こえるがこれでも一応政府直轄の国家公務員であり、名を「審神者」という。これは私がその「審神者」になるよりもずっと前――そして私が「審神者」になるきっかけになった話だ。
私は物心がつく前から常に「ひとならざるもの」たちの姿を目にして生きてきた。そう、俗にいう「視える人」というやつだ。
私の家は昔から祓い屋のようなことを生業にしてきた家系で、気の遠くなるほどの過去を遡れば名のある陰陽師に繋がるらしい。そこに修験道や仏道、神道などが混ざりあって生まれたのがうちの流派で、それは宗教というよりも持って生まれた「力」について学ぶための学問に近いものだった。
不思議なことに強い「力」は生まれてくる女児にしか付かず、そのため当主と呼ばれる人間も代々女が務める女系一族。とはいえ、2020年にもなると長い歴史の中で血が薄まってきたのか「力」の発現はまちまちで、現役で祓い屋の仕事に就く祖母とは対照的に私の母などは全く「視る」ことができない。勿論、婿養子である父も「力」を持たない一般人だ。しかしそんな両親から生まれた私は不思議と強い「力」を持っていた。祖母が言うにはご先祖様の中でもひときわ「力」の強い初代の当主の命日に生まれてきたからだとか。まあ、こういう世界ではよく聞く話だ。
強い「力」を持つと言えば聞こえはいいが、なにもいいことばかりではない。扱いきれない「力」は身を蝕み、より強いものを引き寄せる。そして多くの場合、それは周りの人間にも影響を与えてしまう。だから祖母は私が小学校に上がる前から根気よく色々なことを教えてくれたし、私を一番近くで守ってくれていた。しかし「人と違う」というのはマジョリティが優遇されるこの社会ではいつだって標的になりやすいもので。
「あの子この間道端で一人で喋ってたんやろ?」
「あ、それうちも見た。一条通のへんやろ?」
「ええ、何それ。気持ち悪う。やっぱり、」
「ちょお、声大きいって。聞こえるで」
「嘘吐き」だとか「頭がおかしい」といったレッテルを張られるのは当たり前だった。それでも距離を置かれる以上のことが起こらなかったのはうちが「そういう家」であることは地元では有名な話だったからである。
科学が発達し、たいていのことは人間の手によって解明されている今でも「目に視えない何か」は確かに存在していたし、その中でも悪意を持つものに苦しみ「力」を持つ人間に助けを求めてくる人も少なくはなかった。特に歴史的な建造物や古くからの慣習が残っているこの京都という町では、「それ」らと私たちの世界の境目がひどく曖昧になりやすい。
当たり前のことだが、人々の生活が変われば信仰の形も変わる。それによって救われるものがいれば身を堕とすものもいるし、消えて行くものがいれば新しく生まれるものだっているのだ。
私がその刀と出会ったのは、小学三年の夏休みのことだった。
その日私は盆地独特のじめじめとしたうだるような暑さの中、祖母の頼みを受けて馴染みのお宮さんへのお使いへと出かけていた。
ジィジィと喚くアブラゼミの声をBGMに木陰を探しながら山を登っていけば、ぬるい汗が頬を伝う。これは私の個人的観測であるが、夏というのはどうもよくないものを呼びやすい。事実、炎天下の中汗一つかかずに青白い顔で道端に佇むなにかをもう数人見かけたし、そのうちの一人は頭から大量の血を流しブツブツと何かを呟きながら私の隣をすれ違って行った。
ああいうものは特に害も無いので、無視するのに限る。小さい頃は見つける度に泣きながら祖母を呼びに行っていたものの、流石にもうすっかり慣れてしまっていた。
そんな慢心が引き起こしたのか、それとも夏の暑さのせいか。目的のお宮さんまであと少しというところで、私はひどい眩暈を感じて目を瞑った。
「……ッ、」
その瞬間、私の身体を包む淀んだ空気。先程までの生ぬるさとは種類の違うなにかベトベトとしたものが纏わりつくような感覚に、私は強い不快感を覚えてその場で立ち止まった。
ゾクリ。次に感じたのは、全身が痺れるほど強い寒気。これはまずい。直感的にそう思った私は、ゴクリと唾を呑むと一目散にお宮さんがある方向へと走り始めた。
今まで感じたことがないほど明確で強い「悪意」。曲がり角でちらりと見えた黒い何かから放たれたその禍々しい空気に、私は叫び声を上げそうになるのを必死に抑え走り続けた。
あれに捕まればただでは済まない。そう自分に言い聞かせながら、坂を上って色あせた鳥居を通って木々の生い茂った小道に入る。本殿まではあと少し。そこまで行けば、神主のおじちゃんも巫女のお姉さんもいる。そんな気持ちがわずかな隙を生んだのだろう。私の右足首に何かが絡みつき、それに見事に足を取られた私は参道から引き摺り下ろされるような形で草木が茂る森の中へと転がり落ちた。
ズキン。刺すような痛みにうめき声を上げながら自分の足に目をやると、そこには黒々としたなにかがぐるぐると絡みついていた。得も言われぬ恐怖にしばらく呆然と黒いなにかを見つめていた私は、それが生き物のように蠢きながらスルスルと私の足を這いあがり始めたときにようやくハッと我に返った。
慌ててポケットの中から小さな紙を取り出し、黒いなにかに向かって吹きつける。
それは、普段から祖母に言われて持ち歩いていた小さな御幣。小さな白い紙はふわりと宙を舞うと私の足に絡みついていた黒いものにペタリと張り付き、それを吸い込んでいく。
まるで塩を駆けられたナメクジのようにのたうち回る黒いものから解放された足を見ると、足首のあたりに赤黒い痣が浮かんでいてズキズキと脈を打つようにそこが痛む。それでも今がチャンスだと足を引き摺りながらその場から逃げ出そうとした私を、激しい耳鳴りが襲った。
ズドン。地面が揺れるほどの衝撃。爆発音のようにも聞こえたそれに首だけで後ろを振り返ると、そこには真っ黒な塊がいた。恐らくこれが私の足を掴んでいたものの本体なのだろう。人間でも、動物でもないその姿は夜の闇を集めてギュッと絞ったように黒くおぞましいほどの悪意に満ちていて、私は足の痛みを忘れて弾かれたようにその場から走り出した。
低木の枝に引っかかれ腕や顔に傷がつくのも気にせず、私は走った。本殿に行くにはどこかで参道があったところまで登るしかない。しかしドスドスと音を立てて追いかけてくる黒いものから逃げながら痛めた足で山道をよじ登ることなど、小学生の小さな身体ではとてもじゃないができそうになかった。
『こっちだ』
その声は、その時突然聞こえた。頭の中に直接話し掛けてくるような若い男の声。それは聞き覚えの無い声だったが、私はなぜか「この声の主なら助けてくれるだろう」と思った。そして私の身体はまるで操られているかのように方向を変え、参道とは逆の方向へと走っていく。
『いい子だね、おいで』
見知らぬ声に励まされながら走っていると、進行方向の先に祠のようなものがあるのが見えて来た。あそこだ。この声の主はあそこにいる。相変わらず黒い何かは地面を揺らしながら追いかけてきているのに、祠にしては大きなそれを目にし不思議と私の気持ちは落ち着き始めていた。
『さあ、僕を手に取って』
頭の中に響く声に言われるがまま、祠の扉を開けると封印のための縄をちぎってその中にあるものを握り締める。手の中で冷たい存在感を放つそれが六十センチほどの刀だと理解しながらも、私はそれを抜くことすらできず勢いよく飛びかかってきた黒いものを前に黙って目を瞑ることしかできなかった。
「ギエエエエエ!」
一陣の風が吹き、その場に響き渡った身の毛もよだつような叫び声。痛みも衝撃も訪れないことに驚いて目を開けると、私の目の前にはあの黒いものではなく若い男がその深緑色の長い髪を風に揺らしながら立っていた。
「ああ……久しぶりに斬るのがお前みたいなものだなんて」
それは確かにさっきまで私の頭の中に語り掛けていた、あの声。
「大丈夫かい? って、酷い怪我じゃないか」
「だ、大丈夫です。あの、」
「お喋りしたいのは山々なんだけどね、無粋なヤツがいるみたいだ」
軍服の上から白い布を肩にかけたその男は、長い髪で隠れていないほうの左目を細めて笑うと鈍い光を放つ刀を握り直して私を背中に庇うように立った。どうやらそれは先程私が祠から取り出したものらしく、いつの間にか私の手の中から刀が消えている。お神楽のときに使ったことがある、小ぶりの日本刀。そう、確かあれぐらいの長さの刀は脇差というのだったか。
私に背中を見せる目の前の男をまじまじと見つめていた私は、辺りに響き渡る咆哮で現実へと引き戻された。どこに口があるのかも分からないあの塊が、全ての憎しみをこちらへぶつけるかのように吠えている。
「来なよ。キミも斬ってほしいんだろう、あの石灯篭のように」
一瞬、長い前髪の下に隠れた男の右目が赤く光ったような気がした。
男の言葉の意味も、それ以前に男が一体誰なのかも私には分からなかった。それでも呆然と座り込む私の前で黒い塊を真っ二つに切り裂いたその男は、とても美しく見えたのだった。
どうやら私はそこで意識を失ったらしく、次に目を覚ましたときには私はお宮さんの本殿に横たわっていた。目の前では神主さんと祖母が心配そうな表情で私の名を呼んでいて、ゆっくり目を開けた私を泣きそうな顔で強く抱き締めた祖母の身体が小さく震えていたのを今でもよく覚えている。
どこまでが夢で、どこまでが現だったのか。薄く靄がかかったようにぼんやりとする頭で身体を起こすと、私の左手に何か冷たくて硬いものがあたった。
「これ、」
「それを握り締めて倒れてたんやで」
「あの人は……?」
「あの人?」
キョロキョロと辺りを見回しても、私を助けた男の姿は見当たらない。
「あんたはホンマに……えらいもん連れてきたなあ」
そこで初めて、今まで黙って私を抱き締めていた祖母が口を開いた。もしかしなくても彼女が言っているのは私を助けたあの長髪の男のことだろう。
「お祖母ちゃん、あの人のこと知ってるん?」
「人やない、神様や」
「神様?」
「今もあんたの後ろから、こっちを見てはる」
そう言われて慌てて後ろを振り返っても、私の後ろにあるのは見慣れた障子張りの扉だけ。しかし私の後ろを険しい表情で見つめる祖母が嘘をついているとは思えず、私は不安な気持ちを隠すようにぎゅっと脇差を握り締めた。
それからしばらく私が本殿で身体を休めている間に、神主さんと祖母は何やら難しい顔でボソボソと話をしていた。そしてその話は私が巫女のお姉さんに出してもらった和三盆を食べ終わった頃終わりを迎え、祖母は相変わらず厳しい表情を浮かべたまま私にあの脇差を差し出した。
「これはあんたが持ってなさい」
「ええの?」
「お祖母ちゃんと神主さん以外には見せたらあかんえ」
「お母さんとお父さんにも?」
「あかん」
「分かった」
抱き締めるように握り締めたその脇差は、心なしかさっきよりも少し重く感じられた。
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