1. タンポポ
あれから一年、私は小学三年生になっていた。
お宮さんへ向かう道中に黒い何かに襲われ知らない男に助けられたあの日から、私は祖母に言われた通りにあの脇差を誰にも見せず大切に机の押入れの奥に仕舞いこんでいた。
最初のうちこそ父と母がいないことを確認しては箱の中から刀を取り出しその輝きに魅入っていたのだが、一年もするとそんなことは忘れて今まで通り祖母の手伝いをしながら日々の生活を送るようになった。
不思議なことに、その刀がうちに来てから私の周りで起こっていたいわゆる怪奇現象というものが激減したというのもある。生まれて初めて経験する寒気も耳鳴りも感じない平穏な日々に私は安堵し、また心のどこかでつまらなくも思っていた。
京都府立植物園は1924年――今から約270年前に造られた歴史のある植物園だ。
季節の植物だけではなく京都ならではの展示が人気で、園内のカフェは自然を近くに感じられる場所として人気のデートスポットになっているとこの間夕方のニュースでやっていたのを覚えている。
もちろんそんな植物園への遠足も京都府内の小学生たちにとっては伝統行事のようなもので、「春の遠足のお知らせ」と書かれたプリントをランドセルの中から取り出した私に母は「懐かしいなあ」と笑った。
「お弁当なにがいい?」
「からあげ! あとおにぎりがいい!」
「遠足の季節か。春やね」
母の腰にまとわりつきながら遠足当日のお弁当に入れてほしい具材を羅列していたところで、台所に入ってきた祖母がプリントを手に取り懐かしそうにそう言った。
祖母もまた小学生の頃遠足で植物園を訪れ、さらに高校生の頃にはそこで別の高校に通っていた運命の相手――つまり今の夫であり私にとっての祖父と出会ったとか。
「植物園ならついでに半木さんに寄ってきたらええんちゃう?」
「半木さん?」
「北の森の中に上賀茂さんの末社のお宮さんがあってなあ」
植物園北部には半木の森と呼ばれる自然林が残されている。その森の中にあるのが半木神社で、小さいながらも植物園を守る大切な神社だと祖母は言った。
「私も昔あそこで助けてもろたから、あんたも挨拶しとき」
真面目な顔でそう言われれば断るわけにも行かず、遠足当日の朝、私はお茶の入った水筒とは別に小さなお神酒入れを持って家を出た
。
一般常識的には小学生にお酒を持たせるなんて大問題だ。しかし私はお神酒が自分のものではないことを理解していたし、そもそも昔舐めてみた経験からそれがとても苦く不味いものだと知っていた。
学校から地下鉄に乗って北山駅で降り、十分ほど歩けば入口の門が見えてくる。
全員そろっていることを確認したら、園長さんにご挨拶。そのあと職員さんの解説を聞きながら、温室の中を案内してもらうことになった。
ガラス張りの重いドアを開くと、湿度のある生暖かい空気に身体を包まれる。ジャングル室と名づけられたそこでは、名前を聞いたこともない色とりどりの植物たちが元気よく葉を伸ばしていた。
そのまま有用作物室を通り抜け、冷房室の次は砂漠サバンナ室。学友たちの話し声で職員さんの説明がよく聞こえないのが残念だが、世界旅行をしているような展示は見ているだけで楽しいものだ。
そうして温室をぐるりと一周すれば、待ちに待った自由時間。そこからはグループに分かれて自由に行動するはずだったのだけれど。
「寺井さん、一人?」
「あ、みんなトイレ行くって……」
「そうか。ほな二時にまたここで集合やし、忘れんようにね」
「はい」
気が付いたときにはもう、私は一人になっていた。
とはいえ完全に余りものだった私を「入れてくれた」グループの女の子たちがこういう行動をとるだろうと予想していたので、私は手間が省けたなと思いながら半木の森のほうへ歩いていく。
この体質に生まれてから一人になることにもすっかり慣れてしまった。楽しそうにお弁当の具を交換する他の子たちを見て寂しくないといえば嘘になる。しかし一人でいれば私のせいで誰かが怪我をしたり変な音を聞いたりすることはないのだ。
そもそも人と人とを繋ぐのが「縁」である限り、私はその「縁」が巡ってくるのを待つしかない。泣いてばかりの私にそう教えてくれたのも祖母だった。
広い園内の中をずんずん歩いて行くとくるくると回る水車が見えてくる。半木の森はいくつかの池に囲まれていて、そのうちの一つには水車が設置されていた。
水車小屋を横目に木々の生い茂った森の中へ足を踏み入れる。雨が降らなくてよかった。スンと匂いを嗅げば木々の青々しい香りに包まれる。生きた木の匂いだ。
お弁当はお宮さんについてから食べようか、なんて考えながらのんびり歩いていたところで、辺りの気配が一変した。
「な、に……?」
久しぶりに感じた、つま先から頭の先まで痺れるような寒気。先ほどまで聞こえていた鳥たちの鳴き声や春風の音はピタリと止み、私の周りだけ時間が止まってしまったかのように景色が動かない。
そんな世界を切り裂いて、「それ」は現れた。比喩ではなく、なにもない空間を切り裂いて目の前に姿を現した「それ」は大人の男ほどの大きさの黒々としたなにか。その手に禍々しい刀を握った「それ」の骸骨のような顔の奥で光る赤い瞳と視線が交差した瞬間、私は走った。
不気味なほど静かな空間で聞こえるのは私の荒い呼吸音だけ。しかしちらりと後ろに目をやると「それ」は確かに私の後ろを追いかけてきている。黒い鎧に同じ色の長い髪。落ち武者のような「それ」から目をそらし、私はもつれそうになる足を懸命に動かして鳥居をくぐった。
次の瞬間、背後から聞こえた「バアン」というものすごい音に振り向くと、鳥居をくぐろうとした「それ」が見えない壁に阻まれているようでほっと息をつく。ここは私を守ってくれるらしい。しかしそれもいつまでもつか分からない。今まで見たことのない相手だけれど、自分でなんとかしなければここから生きて帰れないかもしれない。
呼吸を整えながらリュックサックの中からお神酒入れを取り出し、お宮さんの前にその中身を撒く。二礼、二拍、一礼。合わせた手が震える。私にはまだ祖母のように相手を祓う力はない。神社のような場所に逃げ込まなければ自分の身すらまもれないのだ。だから今できることはこの神社に助けてもらえるよう祈ることだけ。
「――清め給へとまをすことを聞こし召せと恐み恐みもま、」
「お困りのようだね」
「っぎゃ!」
混乱する頭でなんとか口にした祝詞を遮ったのは若い男の声で、耳元で聞こえたその声に思わずその場で飛び上がった私を見てその声の主は「ふふふ」と笑う。
「なんで」
「君に呼ばれたような気がして」
「でも」
「それに彼も僕を呼んでいるみたいでね」
薄い笑みを浮かべた緑色の長髪のその男は、去年私を助けてくれたあの男だった。ぽかんとして目の前の男を見上げていたところで再びバアンという音が聞こえ、私はもう一度その場で飛び上がりそうになる。男はそんな私の頭を撫でると、「ゆっくりお弁当でも食べてなよ」と笑って腰に差していた脇差を抜いた。
日の光に晒された銀色の刀身がきらりと光を反射する。私が瞬きをしたその一瞬の間に、男は足音もなく鳥居をくぐると「それ」の懐深くに飛び込んでいく。
叫び声が聞こえたような気がした。しかしそれは空耳だったようで、私がもう一度瞬きをしたそのときにはすでに目の前には「それ」の姿も男の姿もなかった。普段通りの色を取り戻した世界では小鳥たちがさえずり、まだ少し冷たい春の風が私の頬を撫でる。
「なんやったん、今の」
目の前で起こったことを処理しきれない脳の悲鳴の代わりに、ぐうっとお腹が間抜けな音を立てる。
そのときまた耳元であの男の笑う声が聞こえた気がしたがやっぱりその姿はどこにもなくて。仕方なくもう一度お社の前でお礼を言ってからお弁当を食べようとリュックサックを開いた私が目にしたのは、お弁当の隣にちょこんと並ぶあの脇差の姿だった。
抱き締めるように握り締めたその脇差は、心なしかさっきよりも少し重く感じられた。
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